Q&A・・・・「膳所」の読みが「ぜぜ」? |
千数百年前、天智天皇が都を大津へ遷したとき、
当地を御厨所(厨=料理をする所)と定めました。
それ以前は、琵琶湖岸の田園で「浜田」と呼ばれていましたが、
以後「陪膳(おもの)の浜田」となりました。(おもの=天皇のめしあがりもの)
それが膳所となったのは「陪膳の所」と言う意味からです。
当地は相模川の扇状地で、その先端部が琵琶湖に崎を形成していて、
その後陪膳の崎(おもののさき)と呼ばれるようになりましたが、
時代と共に膳(おも)の崎〜膳(ぜん)の前(さき)〜膳前(ぜんぜん)に変わり、
短くぜぜと呼ばれるようになりました。
全国で所を、せ・ぜ、と読む地名は、奈良の御所市をごせし、当地のぜぜの2件だけだそうです。
《 膳所神社 》
天皇の御厨の地にはどこでも食物を司る御祭神、
御食津神(みけつのかみ)=豊受比売命(とようけひめのみこと)が祀られているのですが、
(伊勢外宮の御祭神も豊受比売命です。)
天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の地と定められ、
天武天皇の代に大膳職の御厨神として大和国からを奉遷して祀ったのが膳所神社の始まりとされています。
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膳所大明神はかなり格式の高いもので、天子御厨地の神として菊燈を掲げ、周囲は筋壁で全て御所に準じていました。
中世には諸武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っています。
東山天皇は膳所大明神の宣下をされています。
江戸時代、膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進がたびたびありました
神紋の菊は後に藤、橘に変え、筋壁は安政の大地震で壊れましたが、現在表門の左右に残っています。
現在の膳所神社の表門は、旧膳所城の二の丸から本丸への入り口にあった城門(薬医門)で、重要文化財です。
この門は昭和57年の修理の際に棟札が発見され、
明治3年8月、こわされた膳所城から当社へ移築されたものであることが分かりました。
膳所神社「祭典日程」
膳所神社
〒520ー0815大津市膳所一丁目14番14号
電話077−522−1167
膳所の御厨は御所が大津京から平安京に移ってからも続けられていました、
粟津、松本〜瀬田の橋本、大江、大萱がその所領で、主に琵琶湖の魚介類が献じられていました。
余談になりますが、当店の3代前の親戚は、
明治天皇に御好物であった琵琶湖産の鰉(ヒガイ)という名の魚を献上していました。
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